寄付の依頼が来た(レジデント初期研修用資料)、別に悪いものではなかったし、疑ったり無碍にしたりするつもりはない、ただ依頼の手法はなかなかうまいなと思ったんだけど最後のツメが甘くて寄付する気にはどうもなれなかった、という、そんな話。
ブクマコメの中にはなんだか妙に怒っているのもあるんだけど、そういう人は寄付の依頼にあった「○○郡の○○ちゃん13歳の日課は・・・」というエピソードで語られる「問題の個人化」で背負わされた気分になる「4人分の人生」といった、そういうものに一瞬ほだされそうになる、もしくはなってしまった自分の「情」の部分を貶められたような気でもしてんのかな、とちょっと思った。
実際にアフリカや南米に行って働いたこともある。NPO・NGOの活動とて元手が必要なのだから寄付を集める活動も日本国内でやった。企業やいろんな国の大使館向けのものから、イベントなどでの個人向けのものも、ひととおり。イベントでは、パネルの展示やグッズの販売(これも寄付になる)とかもするのだが、具体的にどんな仕事やってんの?とかいう質問は受けるし、それにはできる範囲のやった範囲ではあるが答えている。特にうちは小額でも寄付をしてくれたところには必ず、その年度の収支報告を送っています、という一言つきで。
しかしそういう「使い道」の質問をされる一方で、ケニアでわたしが働いていた診療所の近くにあったセカンダリースクール(日本でいう中学教育課程、ケニアでも義務教育である)から、いつの間にか姿を見せなくなる生徒がぽつぽついた。それは常に女の子で、彼女達がどこに行ってしまったかは誰も語ろうとしない。家で弟や妹の面倒を見ている子もいるし、近くの町の商店や工場で親と一緒に働いている子もいるけれど、そういうのはまだいい方で、本当にどこに行ってしまったのかわからない女の子は一体今頃・・・。などという話は、意図しなくてもわたしが診療所でしていた仕事の、本当の「使い道」の話なんかより確実に人々の興味を引く。
ただ「興味を引く」ことと実際に寄付するという「行動に出る」こととは別なのかもしれない。とあるイベントで「ヨソの国で死にそうになっている子供なんか知ったこっちゃねえが、あんたのその度胸を買った、これは寄付なんかじゃねえぞ」と、怖い顔にパンチパーマのおっちゃんが募金箱に紙幣をねじ込んでくれたことがある。まあその時した話はやっぱり活動内容でもどんな成果を挙げたかでもなかった。
もしかしたら「誰に」使うのかじゃなくて「誰が」それを使うのかを見せるほうが効果があるんじゃないだろうか、と思った。冒頭の話ではなぜかそこに菊川怜が登場して、結局オチとしての効果になったということで。