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それで満足ですか?
わたしがまだ卒後5年目ぐらいの頃勤めていた病院に転院してきた、わたしと同い年の女性患者がいた。末期がんだった。もう何の手を打つでもなくなった段階で、苦痛の緩和をしながらゆっくり最期まで過ごしたいと本人と家族が望んだので、それまで治療を受けていた都心の大きな病院から、何かあって電話すれば5分以内に駆けつけることができる近所にあるうちの病院に移ったのだということだった。入院からしばらくは意識も清明で、面会に来た友人たちと会話したり、家族がもってきた好きなものを少しずつ食べたりして穏やかに過ごしていた。わたしは同い年だったこともあって、子供の頃に見たTV番組や中高生の頃に流行ったものの話などをよくしていたように記憶している。ある雪が積もった日に「見たい」と言う彼女を、身を起こしただけでも骨転移であちこちの骨にひびが入るような状態だったので看護師3人がかりでベッドごと引っ張り出して雪のよく見える場所にまで連れていったことがあった。「春から○○くん(彼女の息子)が小学生だよね、今度は桜のシーズンだよ!桜が見たい時はこの倍の人数でマットレスごと担いで桜見せに連れていくよ!」と声をかけると彼女は「あら、できたらそのままおみこしみたいに入学式にも連れていってくれると嬉しいわねえ」と言って本当にいい声で笑った。しかしその後から次第に意識レベルが低下してゆき、桜が咲く少し前には昏睡状態に入ってしまった。そしてとうとう呼吸も脈拍も止まりそうだというとき、駆けつけた彼女の両親、きょうだい、夫と息子の家族全員が彼女を囲んでみんなで手を取り声をかけながら静かに最期のお別れをしていたその時、ひょっこりと見知らぬ女性が現れた。

散歩のついでに立ち寄ったといった雰囲気のこの女性は彼女の親類の「おばさん」らしく、がんであることは知っていたらしいのだが、最初に告知されて手術を受けた頃に一度入院先に面会に行ったことがある程度で、それ以降は顔を見に来たこともなく、近所の病院に転院したらしいから来てみました、ということで患者がもうすでにこの段階になっているということは全く知らなかったという。そして病室に入ってくると「ちょっとこの病院はなんなの!?人が死にそうだっていうのに見てるだけなの?!こんなに苦しんでるのに何もしないなんて!」といきなり叫ぶので苦痛の緩和のためにやれる限りの処置は全てしていて決して「見てるだけ」ではないこと、ここにいる家族はこうして揃って静かに最期を迎えることを希望して、みんなずっと前から患者と一緒に過ごしてきたことを医師が説明しても納得せず、ますます逆上し今度は病室のドアを開けて廊下に向かって大声で「ここの病院は患者を見殺しにするっていうの!?最後まであきらめないで一生懸命患者を生かすために治療するのが医者ってもんでしょう!まだ○○ちゃんはこんなに若いのに!ああ○○ちゃんがかわいそう!こんな病院に来たばっかりに何もしないで殺されるなんて!」と叫び始めた。医師が困惑した顔で横にいた先輩看護師を見る、先輩がその横にいるもう一人の看護師を見、彼女はわたしの方を見た、わたしの横・・・って誰もいないし!えっわたし?全員が目で頷く。「頼むからお前やってくれ」という彼らの視線のパスを受け、わたしは意を決して、患者の胸に手を当てた。そっと押したはずなのに、聞いたこともない鈍い音をたててわたしの手のひらはなんの抵抗もなく骨転移でボロボロになっていた彼女の胸の中に沈んだ。

しかし始めてしまった以上手を止めることはできず、数回胸骨圧迫を続けていると、ずっと黙って見ていたもうすぐ小学生になる彼女の息子が「もうママに何もしないで!」と叫んだ。わたしがその声にはっとして手を引っ込めると患者の父親が「もう結構です、やめてください。皆さんには本当に十分すぎるほど良くしていただいて・・・ありがとうございました」と言って、彼女の夫と共に深々と頭を下げた。

自分の言動が他人に対して影響力があるのだということを確認したくて仕方がない人、というのは確かにいる。この「おばさん」がそうであったのかどうかはわからない、しかし彼女が引き上げていく姿がこころなしか満足げに、意気揚々といった風にも見えたのはなぜだろう。滅多にお目にかかれない人の死に目というものに行き合い、自分が何か言うことでわたし達医療者を動かすことができた「成果」に満足したようにも思え、わたしが胸骨圧迫の手を止め、死亡確認がされたあとあれほど叫んでいたのが嘘のように「最後までよく頑張ったわねえ」と患者の顔を撫で回しながら目に涙をためていた「おばさん」が実は自分が「最後までよく頑張った」と撫でられ、褒められたかったのかとも思う。

この話を福島の因業医者にしたら、ものすごく嫌な顔をして「こないだもあった、そういうの」とボソっと言った。なんせ田舎のことなのでやはりまだ「長男」の威光が健在であり、たとえ次男以下の家族がずっと介護をしてきた寝たきりの老人で、もう積極治療をしないで穏やかに看取ると話がまとまっていても、数年ぶりに都会から帰ってきた長男が出てきて全力CPRだ昇圧剤どころか輸血だろうが透析だろうが人工呼吸器だろうが全部やれとひっくり返される。せっかく医療側と介護していた家族とも良好な関係が築けていて、連携したいい形でお看取りができた場合でも、いきなりやってきた「親戚」が患者が亡くなったということは医療ミスがあったに違いない、何か隠しているに違いないと騒いで、家族を唆して訴訟に持ち込ませたりするどちらにとっても不幸なケースもあるのだという。

「だからもうオレらに対して患者がこういう人だからあれをしろとかするなとかいう決まりをつくる以前にな、患者や家族の側がしておくべきこととして誰の言うことを尊重すべきか、直接世話にタッチしてこなかった人や関わりの薄かった人の言うことはたとえ血縁が濃くても取りあわないとかいう線引きをきっちりした決まりは作ったほうがいいと思う」

最近になって、初めて希望者本人の署名がされた尊厳死協会のリビングウィルの原本というものを見る機会があった。その中に「この趣意に理解を示さない医師がいる場合は協会へ連絡してくれ、説得にあたる」と書かれていたのだが、理解を示さない医師なんて今どきそんなにいるだろうか?医師を説得するよりも、こうして後からやってきて騒ぎたてる「親戚」を説得する方がよっぽど現実的なんじゃないかと思う。間違いなくそうしてくれるならこのリビングウィルの通りにしてもいいのに、と考える医師はかなりいるんじゃないだろうか。そしてこの「後からやってきて騒ぎたてる」のは必ずしも親戚の誰かとは限らない。メディアがその役目をすることもあり、傍観者の「世論」であるかもしれない。

よく混同されて論じられるが、安楽死と尊厳死はどこかでリンクしながらも似て非なるものだと思う。そもそも今生きているわたし達自身が生者としての尊厳を守られているかどうかすら疑問がある社会で、いきなり死の場においての「尊厳」を考えろといわれても戸惑うしかないのも事実であり、どうしても具体的に想像しやすい「安楽死」に寄っていくのも仕方のないことだと思う。しかし宮子あずさ氏の言葉を借りて言うならまず「死の場に対する敬意を持つ」こと、死にゆく人、その周りにいる人々の事情に思いを馳せること、自分がその場に踏み込むべき立場であるのか弁えること、それが「尊厳死」を考えるわたし達の最初のステップだと思う。
# by valencienne | 2012-05-08 11:24 | 医療(裏) | Trackback | Comments(4)
希望
栄養士をしていた母が「昔は看護婦さんが病棟で経管栄養の素をぬるま湯で溶かして調合してたもんよー、これが油臭くってねえ、とてもやないけど飲んでみようて気になれるもんやなかったわ」と言っていた。わたしが看護師になった10年前はまだ缶やアルミパウチに入った経管栄養をイリゲーターという吊り下げ式のボトルに入れて使っていたところもあったが、今はほとんどがこうした個別のパックになっていて、ディスポーザブルのルートを接続してぶら下げて胃ろうや経鼻胃チューブにつなぐだけのものが主流になっている。昔に比べれば味もずいぶん改良されていて、経口でそのまま飲めるぐらいのものもあるが、毎日これだけ多量の経管栄養を扱っているもので、調子の悪い日などはパックを開封したときに立ち上る甘ったるい匂いに胸がつかえる感じがすることがある、わたしにはどうも無理だ。

ケニアで一緒に働いていたデンマーク人看護師に胃ろうの話をしたとき「日本はそんなに食道がんが多いの!?」と驚かれたことがあった。彼らの国では胃ろうはあくまで疾患による咽頭や消化管の通過障害のためのものであり、日本のように誤嚥性肺炎を繰り返す、経口摂取ができなくなるほどの高齢者の生存目的で使うものではない、という認識らしかった。

老年医学会やNPO法人PEGドクターズネットワークなどで、終末期の胃瘻に関するガイドラインが作成されようとしている。わたしは最初、こういう選択肢だってある、と「医療行為」の中に明文化しておくことで、それぞれが自分の死生観や身近な人との関係性の見直しになれば、そして「自主的な」選択とは何なのかを考えるきっかけになればいい、と思った。そして同時に以前死生観についてのエントリで「自分は人を殺したことがないので死というものがわかりません(キリッ」というコメントがついたことがあってガックリきたのを思い出し、この国では絶対そうはならず、ただの医療費削減目的に決着するんだろうなとも思った。今はまだほとんどの人がこの選択肢を高齢者のこと、寝たきりや認知症で意思疎通もできなくなった場合として、自分からまだ遠いところの話だと思っているのかもしれない。しかし意識もなく経管栄養で生きているのは何も高齢者に限ったことではなく、たとえば交通事故や溺水や自殺未遂や、実際あった事例では本人は自殺するつもりはなくても同じアパートの住人が図った練炭自殺で階上に住む人も道連れで一酸化炭素中毒になったり、そんな日常の中に不意にふりかかってくる予期せぬ出来事が自分や家族を寝たきりの、意思疎通も経口摂取もできない状態にしてしまうかもしれない。蘇生後脳症ばかりの病棟で働いていると、これは決して他人事でも未来の話でもないはずなんだけどな、と思えてくる。

もう一つ、わたしがなんとなく不快に感じたことがある、それはこのガイドラインを「仕方のないこと」としながらも医療費の削減につながるのなら、と受け入れつつある世間一般の雰囲気である。普段は「何が何でも生かせろ、もし死ぬようなことがあればお前らの落ち度だ」とわたし達を追い立てる同じ口で、こちらが手を尽くしどうにかして救いましたという人々を今度は「無駄な金がかかるだけだからやっぱりそっちで死なせてくれない?」と言っているのと同じではないか、そんな都合のいい話ってあるもんか、と思う。

実は以前から、消極的に「枯らす」ようにして静かなお看取りをすることはあった。わたしも10年看護師をする間にいろいろな病院で何度か見たことはある。しかしそれは本当に稀な、そしてこう言ってはなんだが非常に幸運なケースだったと思う。ただ本人が以前からそう希望し、家族や近しい人たちがそれを尊重して実際に行おうとしたとき、それまで見たこともない親戚がいきなりやって来て殺すつもりか訴えてやるなどと騒ぎたてた挙句その希望がふいになることも少なくはなかった。命だけならわたし達にも続けられる。びっくりするほど続けられる。だけど「その人」であり続けることを支えるにはわたし達の力ではどうにもならない部分が確かにある。

ボリビアの看護学校で教員をしていたとき、わたしは主にその当時南米で流行していた新型インフルエンザの対応とその他の感染管理について教えていたのだが、授業の中で学生達にせがまれて日本で行われている医療の話をしたことが何度かある。そしてわたしの働いている遷延性意識障害の病棟の話をしたとき、彼らの間に広がっていった失望の表情を今も忘れることができない。彼らは日本という遠い遠い憧れの国の「tecnología avanzada(進んだ科学技術)」に無邪気な希望をただ抱いていたのだろうと思う。アンデス山脈を越えた向こうに広がる太平洋のさらに果てにある小さな国では、その進んだ科学技術で自分達が海外のドラマでしか見たこともないような高度な医療がごく当たり前にすべての人々に平等にゆきわたり、誰もが幸せになっているのだろうと。そしてこの国がもっと豊かになれば、その豊かさが自分達の手に入れば、今のこの国ではただ死んでいくしかない多くの人々の命が同じように救えるだろうと信じていたのだと思う。一人の学生がわたしに言った「リセ・エボリ、そのテクノロヒアは誰も幸せにしていないじゃないですか」という言葉は帰国後また同じ病棟で働くようになって3年目になろうとする今もまだわたしに突き刺さったままである。

こうして病棟で経管栄養の準備をしながらいつも思う、誰もこのような姿にしようと思って胃ろうや中心静脈栄養や人工呼吸器や、そんないくつもの「生かす」技術を開発したわけでは決してないはずだ。いま命の尊厳を損なっているのは少なくとも「医療」ばかりのせいではない、わたしはそう思いたい。
# by valencienne | 2012-02-26 03:53 | 医療(裏) | Trackback | Comments(3)
平常運行
病棟でバタバタしている間に2012年が始まってしまっていた。仕事じゃないときでも大体いつもこんな感じで何かやってる途中で年が明ける。病院で夜勤しながら年を越すのは3回目だか4回目だか、今年で経験10年だから結構な割合で当たってるのではないかと。クリスマスイブも夜勤だった。その日は夜勤の相棒がチキンとケーキを持ってきてくれていた。大晦日の夜勤も同じ相棒とコンビで入ることになっていたので「じゃあ今度の入りはわたしがおせちつくって持ってくるさ」ということで、おせちを詰めて、お雑煮の用意もして持っていった。元旦明けて、仕事が終わってから丸餅を病棟のレンジてチンして具をのっけて、ポットに入れて持ってきたおダシを注ぐといった簡易版ではあったのだけど、女二人で休憩室でしんみり正月を寿いで帰った。うちの病棟は東北や北関東の出身が多いので、こうしたたたき牛蒡やぶり照りの入る関西風のおせちは珍しかったらしい、日勤者もやってきてあっという間におせちも煮しめもはけた。

正月だし母の誕生日でもあるしで実家に電話をした。特に正月らしいことをしなくても相方は別段文句を言うわけでもないし、こうした「うちのやりかた」を教えていく子供がいるわけでもないので、こんな手間をかけておせち作ったりお雑煮を作ったりする必要などない。まして盆や正月に普通に休めるような仕事をしているわけでもない。それでもやっぱりこういうことはねー・・・やらずにいられないのが何年も教え込まれて身体にしみついた習慣というかなんというか。おせちをつくったら「こんな感じでー」と写メを送っているのだがいつも大体「何年も何年も教えて来たちゅうのに、今になってようやくまともな物が作れるようになってきたかw」というかわいくないコメントしか返ってこない。なんせ仕出し屋の娘(かつ栄養士)である、やはり今年もダメ出しが出た、手を抜いたところも油断したところも全部バレていた。まあ勝てる気はいまだにしないのではあるが。
# by valencienne | 2012-01-04 06:32 | 日常業務 | Trackback | Comments(2)
今北さんた
相方の会社では毎年夏季(6月~9月)のみビジネスカジュアルデーを導入していて、その時期のシャツの洗い替えが必要なので買うのもバカにならないしでわたしが製作とかしてたんですな。彼もそれなりに面白がってて「今度はこんなの欲しい」とか言うようにもなり、リクエストに応じてあれこれトンチキな柄とかで仕立てたりして。まあそんな感じで約10年、今年は震災の影響で節電というのもあり、ビジネスカジュアルが通年化したようで、相方は内勤が主であるのでほとんどスーツの出番がない。そしてある日相方が「新しいジャケットが必要かな、と思うんです」と言いだした。ああ、そういや今着てるのも仕立てがしっかりしてるからいいけど、けっこう年季入ってるよね、体型も変わってきてるし新しいのそろそろ必要だね、と相方を見ると、かなり以前に買っていたこの本をパラパラめくって見ている!

クライ・ムキのメンズジャケットカタログ

クライムキ / 文化出版局


・・・えーとそれは・・・わたしに「作れ」という意味で?と、恐る恐る聞いてみると
「え?だって自分のスーツやコートはばんばん縫ってるじゃん!できるでしょ?」
でき・・・なくはない・・・と思う。しかし最近ミシンの調子が悪く、取り掛かったはいいが仕上げまでいたらず途中で放置してある作品もいくつかある。

現在使っているミシンは、ジューキのリーザという機種で、看護学校に入った年に母が生協か何かのカタログで2万円ぐらいだったのを買って「サイズ合わんて文句言うぐらいなら服ぐらい自分で縫いなさい、何のために作ってるとこ見せてきたと思てんねん」と持たせてくれたものである。もう10年以上これを使っていて、そろそろ糸送りとかがアヤシくなってきており、ボタンホールなんか3つに一つぐらいは糸切れするようになってきていたのをだましだまししながら縫っていた。いわゆるコンパクトミシンという種類のもので、普通なら子供服の裾あげとか幼稚園の袋物縫いなどでたまに出して使うような機種である、それで14オンスのデニムとか厚手ウールまでがりがり縫いたおして酷使してきたんである。そりゃ具合も悪くなってくるのも道理。

そろそろ新しいミシン買う時期かもな、と考えていた。別に専門的に洋裁をしているわけでもないのだし、10年ちょい作っていて、自分の作るものがどの程度で必要な機能がどれぐらいかもよくわかっている。正直なところ直線縫いとボタンホールができれば十分で、端かがりにベビーロックが別にあれば万々歳ってところよねー、なんて思っていたのだが、やはりコンパクトミシンはパワーがないのを実感していたので、次はもっと馬力のあるミシンがいいよねー、じゃあベルニナハスクバーナがいいなー、刺しゅう機種じゃなければそんなにお高くないし、っていっても一番安い機種でも10万円からスタートという、まあかわいいお値段w

所詮シロウトの趣味の道具にこれだけの投資をする必要があるかねえ、と思ったのも事実で。とりあえず相方には「ねえねえー、クリスマスにハスクバーナがほ~す~ぃ~のぉ~(クネクネ」と言ってみたら

「・・・チェーンソー?欲しいの?」

実はハスクバーナは造園機器のメーカーとして有名で、芝刈り機やチェーンソーの製造もしている。っていうかこっちの方が本体で、ミシン部門は別会社に売却されてるんだけど。

「違うよう!ミシンの方だよう!!」
「はいはい、それはサンタさんにお願いして。でもあなた今年も悪い子だったからサンタさんチェーンソーの方のハスクバーナ持って来るかもねえ、ホーホーホーぶいーんってドアなんかバリバリバリ~」
やだそんなサンタ、ていうかなにその根性入ったなまはげ。

そして先日、ジャケットを仕立てる生地を相方と買いに行ったとき、懸案のミシンが売られているのを見つけた。しかもそれが年内56%オフという超特価で!うそーん、ちょっとこれどうするよ?!と、迷っていると相方が「いけっ!買えっ!」と煽る。しかし根がケチくせえ貧乏性であるわたしはどうも踏み切れない。イラッときた相方(衝動買い上等)が「ああもう!出資してやるからっ!さっさと買えっ!」と現金をターン!と出したw結局出資割合は相方40%でわたし60%ということで購入。うわあ買っちゃったよ。

そして昨日、そのミシンが届きまして、サンタ到着遅すぎw
ジャノメのOEMで、台湾で製造されているらしいんで、部品とかも心配ないよなってことで。しかしモーターはやはりスウェーデン設計なのでパワーだけはある・・・らしい。
水平釜かあ・・・今はこれが主流だしな。
実は今使っているミシンにこだわり続けた理由が垂直釜だったというのがある、糸絡みがしにくいし何より使い慣れていたからなんだけど。最近はもう垂直釜のミシン自体あまり見かけなくなっていて、ボビンケースを買いに行ったときに「まだ垂直釜をお使いなんですか?」と聞かれたことがある。早速母に「ハスクバーナ買っちゃった~」と自慢の電話を入れたら「エメラルド116か・・・まあええわ、離婚するときはちゃんと忘れず持って帰ってくるんやで」と言われた。やっぱりうちの母であるw
# by valencienne | 2011-12-28 16:29 | Trackback | Comments(10)
皮一枚

(わたしが最高のメゾソプラノだと思っているのが去年5月に亡くなったアメリカの歌手シャーリー・ヴェレット。現在アイオワ大学で教鞭をとっているバスバリトン歌手のサイモン・エステス同様に彼女もまた黒人であることを理由にオペラ界で受けた数多くの差別について自伝の中で言及している。)

患者さんだけじゃなくてその家族と関わるのも仕事のうちではあるんだけど、面会に来た人の顔を見て、名乗られる前にどの部屋に案内すればいいのかすぐわかったり、「患者さんが立って歩いてる!」と一瞬勘違いしてドキッとするぐらいだったりというのを10年近く何度も見ているとしみじみ「やっぱ親子きょうだいって似るんだよなあ」と遺伝を実感することがよくある。自分が子どもの頃は、親戚や近所の人たちに親に似ていると言われてもどこが似ているのか全くわからなかった。鏡に映っているのはどう見ても自分の顔で、自分の顔のパーツのどれが父に似て、母に似ているのかが全く見いだせなかったのだ。しかし国家試験受験のとき、願書と受験票に貼る証明写真を撮りに行き、出来上がった写真を見たら「おっ、お母さん?!」と口走ってしまうぐらいに似ていてサブイボが立った。あれぐらい怖い思いをしたのは初めてだった。周囲にも子どもの頃は親に似てると思えなかったのだが大人になってから気づいたという人は多い。どうして子どもって自分が親に似てることに気づけないんだろう、と思っていたのだが、こんな恐怖感子どもには耐えられんわマジで。

二つ下の妹がいる。彼女の方はわたしと違い顔立ちは父親似である、というかまんまコピーである。昔から母はことあるごとに彼女をブスだと言い続けていた。しかしそう言うと同時に必ず「それが可愛くてしょうがない」とも言っていた。そのせいか彼女はものすごく自分の容姿に関してはポジティブである。オシャレも大好きだし、目立つことも好き、何より他人が示す好意に対して過度に警戒も疑念も持たないで受け止めて、相手に返すことができる。ところが母はわたしの容姿については何も言わなかった。むしろ避けていたようにも思う。この子は手足は長くてスタイルだけはいいからねぐらいのことは言っていたが、妹に対してのようなことは一切言われた記憶はない、可愛いともブスだとも。今思えばわたしがあまりにも母に似すぎていたせいで言えなかったのか、いやそれよりも、彼女自身が自分の容姿を肯定的に受け止めていなくて、彼女によく似たわたしを見たくなかったのかもしれないとも思う。わたしは写真を撮られるのを極端に嫌がり、鏡を見るのが嫌いだった。特に自分が醜いと思っていたわけではなかったが、自分の姿をできる限り見たくないと思っていた。

しかし大学をすぐに中退してしまってぶらぶらしていた頃に、友達に誘われ時給の高さにつられてモデルやコンパニオンのアルバイトを始めることになった。それまで鏡すらろくに見ようとしなかったわけで、化粧など真似事でもしたこともなく、初めて他人の手でどんどん自分の顔を作られていくのを見たときにも、変わっていく驚きより居心地の悪さしか感じなかった。ところがわたしの居心地の悪さには関係なく、その仕事はいくらでも入ってきた。当時はただ「若い女」というだけで、そこに立っているだけで、微笑みさえしなくても勝手にどんどん目の前に金が積み上がっていく時代だった。しかしそのお金を出す人たちも、たぶんわたしが目当てで出しているわけじゃないんだろうなとは感じていた。かといって「若い女」であれば誰でもいい、というわけでもなさそうだった。多分彼らは「こんなくだらないもののためにこれだけの金を出せる余裕のある自分」を誰かに見せたいだけのかもしれない、とわたしは思っていた。

ある日、コンパニオンで呼ばれていたパーティで地元企業の社長二人に声をかけられ、国際的なミスコンテストの日本代表を決める地区予選に出ないかと誘われた。彼らはその地区予選の審査員5人のうちの二人だった。あと二人を説得してわたしに投票させれば地区代表になれるから、と言うので「なんでそんな話わたしに持ってくるんですか」と聞いたら実は参加者がなかなか集まらないのだという。バブル崩壊直後で、コンテストのスポンサーがつかなくなっているのは知っていた。そのため副賞が以前とは段違いにショボくなっているにもかかわらず、タイトルを取ったあとの拘束(他のコンテストに出場できない期間やキャンペーン協力など)は前より厳しくなっていて、ミスコン入賞が「女の子たち」にとって決してうまみのあるものではなくなっているらしいのも感じていた。だから地方のミス○○なんてキャンギャル決定や女子アナ就職のための箔付けみたいなコンテストの参加者なんて実質いないも同然で、残りは頭数合わせにコンパニオンやモデル事務所から「アルバイト」として呼ばれ、わたしもそれで何度か出場したことがあった。簡単に言えばサクラである。しかしまさか地方予選とはいえそんな国際的なミスコンにまで人が集まらなくなっているとは思っていなかった。

その話は丁寧にお断りしたのだが、わたしが「社長に娘さんがいらっしゃったら、こういうコンテストに出場させますか?」と聞いたら彼らは二人とも「絶対に出場はさせない」と言った。そして一人は「女の子がね、売りにできるのは美しさだけで、それで成り上がっていけるっていうのはいろんな意味で貧しい国だってことなんだよ。そろそろ日本がそうじゃなくなってきたんだと僕は思いたいね」と言った。それを聞いたときにわたしは、今までバカバカしいと思っていたミスコンの本当のバカバカしさが見えたような気がした。

当時もう、フェミニスト団体などがミスコンテストを「性の商品化」だと言って反対していて、ある時わたしが出たミスコン会場にも抗議しに来たことがあった。その時ミスコン開催者側のイベント会社の男性がわたし達の機嫌を取るつもりか「あれはキミ達と違って、もてないブサイクな女やもう男には相手にされなくなったおばさん達がひがんでるだけだから」と言っていた。しかし出場者の女の子達がみな一様に不快感を感じたのはフェミニストではなくその発言をした男に対してだった。裏でわたし達が雑談していたときに、ある女の子が「文句を言ってくるのは差別された側からだけで、贔屓された側は無条件に感謝して自分に好意的になるとでも思ってんのかしらねえ?」と鼻で笑いながら言って、わたし達は彼に対して持った不快感の正体に気づいて、一斉に「ああ!」と手を叩いた。自分さえ優遇されるのならば、たとえ他の人達をサゲたり攻撃していても別に構わない、むしろ「わたしのために、ありがとうございます」なんてヌケヌケと言えるのだとしたら、それはただの残念なおミソの持ち主か根っからのクレーマー体質である。何よりわたし達はそう見積もられていたことが不愉快だった。

母はよく「顔立ちなんて皮一枚や」と言っていた。皮一枚剥いてしまえばどうせみんなほとんど同じような姿でしかない。その皮一枚ではじめから「差別しますよ」と公言している人間を誰が信用できるだろう?さほど考えなくたってわかる簡単な話である。
# by valencienne | 2011-11-11 13:22 | 日常業務 | Trackback | Comments(0)
移民の歌
ワシントンで知り合った外交筋アメリカ人と食事に行った後、ホテルに戻ってテレビをつけたらこのCMやっててコーヒー吹いた。


Fruit of the LoomというUS老舗アパレルの男性用下着のアルゼンチンバージョンCMなのだが、いわゆる「男の仕事」と言われる職業の人たちがばんばん脱いでいくという、これまたむさくるしいミュージカル仕立てのもの。アルゼンチンバージョンなのだが、放送されているのはメキシコのTV局、中南米はほとんどの国がスペイン語なので翻訳の手間がいらない分、こういったどこかの国のコンテンツがほぼ同時に全土で流れるとか使い回されることがものすごく多い。サバド・ヒガンテという1962年にチリのCanal13から放送開始となった番組は1986年にアメリカのウニビシオンに権利を譲りながらもずっと南米全土で放送され続けているし、メキシコの「El Chavo del 8」というコント番組は今もなお南米のいろいろな国で再放送され続けていて、誰もが知っている。だからかもしれないが、どこの国出身であれスペイン語圏の人たちと話をするときにこういったテレビ由来の話題で外すことはまずない。会話の中にこうした「誰でも知っている」話題や動作を入れるだけで、わたしはただの「スペイン語が話せるだけの外国人」から「同じ文化をベースに持つ仲間」として、あっという間に彼らの中に受け入れられるといった経験を何度かしたことがある。そういう時の彼らは本当に無防備で、わたしを娘と呼び、姉妹と呼び、本当に暑苦しいほどの親愛の情をばんばん惜しげもなく披露してくれたもので。

さて、空港で帰国便のチェックインをしようとしたとき、カウンター前に並んでいるのが「うわー・・・どうしよう・・・」と思うほど中国人ばかりで、カウンターで座席はどうするかと聞かれたときに「中国人の隣じゃないならどこでもいい」と言ったら係員が「それは不可能でしょうね、ほら」とアゴで指すぐらい中国人ばかりだった。普段なら多少の彼らのマナーに関することは気にしないのだが、食べるときにクチャクチャ音を立てる人の割合がかなり高いのであの密着空間でそれだけは勘弁してもらいたかったのである。結局通路側の席で、搭乗したら3人がけの真ん中の席にでーんと座っているのが中国人のおばさんで、わたしの座るはずの席の上に足を投げ出している。仕方ないのでNHKの中国語会話で聞いた覚えのある知っている中国語で「すみません、ここ、あなたの・・・」とまで言って、座席って中国語でなんて言うんだろうと詰まるとそのおばさんはハッとして「あなた中国人?」と聞くのでいや申し訳ないが日本人で・・・と言ったらサッと席を移って真ん中を開けると「あなたもこっちに足伸ばしなさい!」と言う。聞くとある程度英語は話せる人で、子供がアメリカにいて、アメリカ国籍を持つ人と結婚して市民権を得たので自分を呼び寄せてくれてアメリカに住んでいるのだが、用事があって中国に一時帰国するところなのだという。わたしは日本人であるし中国語なんてほとんどわからないのだが、最初の一言がきいたのか、おばちゃんは謎の中国菓子をすすめてくれたり退屈しないかとか水もらおうかなどと信じられないぐらいフレンドリーで親切だった。その姿に、中国から期待してアメリカに出てきたはいいが、おばちゃんこの国でそれほど楽しい思いはしなかったのかもしれないな、となんとなく感じてちょっと寂しくなった。

日本人が海外に出かけて、近づいてきた日本語を話す現地人に気を許してしまって犯罪に巻き込まれるという話は昔からある。しかし今までわたしが海外で出会った人たちの、わたしが多少なりとも彼らの言語を使えるのだとわかった瞬間に彼らの顔にぱあっと広がったあの表情を思い出すと、わたしはそういう日本人観光客を迂闊だったとか危機意識が低いなどとしたり顔に責めることはどうもできないのである。悪意のある人はたとえ日本語なんて使わなくても悪さはするのだと思う、それだけである。
# by valencienne | 2011-10-10 07:36 | Trackback | Comments(2)
男前
震災から半年が経過して、被災地のあちこちで避難所が閉鎖され、搜索は続いているものの規模を縮小したりしているらしい。わたしの同僚の兄嫁と姪も陸前高田で津波に被災して行方不明になっていたのだが、震災から4ヶ月近く経過した頃に兄嫁の方は発見された。しかし姪の方はまだ見つかっていないという。彼女は今もいつもと変わらない様子で仕事を続けているしわたし達も普段通りに接しているが、彼女も残された兄が気がかりじゃないわけがないし、悲しくないはずもないとみんな感じている。もう半年が経った、日常を取り戻したかのように思える、だけどそれぞれがずっと「あの日あったこと」を抱えている。

この間までワシントンに行っていた。ちょうど9月11日の同時多発テロから10年、ホテルのテレビをつけるとペンシルベニアのシャンクスヴィルに墜落したUA93便の被害者追悼セレモニーをしているところだった。40人の犠牲者ひとりひとりの名前を読み上げて鐘を鳴らしている後ろで、機体が墜落したらしい草原の中を歩いている家族の姿が映っていた。何か探すように地面を見ながら歩いていた、本当に何か探していたのかもしれない、もう10年が過ぎ何も残っていないことなんか知っていても探さずにいられないだろうと思う、それが20年経とうと30年経とうと。

滞在中にあげたエントリにも書いたが、その日の夜ケネディセンターで上演されるワシントンナショナルオペラの「トスカ」を観に行った。指揮者のプラシド・ドミンゴは余震も続き、原発事故の影響もあって多くの海外アーティストがキャンセルする中、4月初旬にコンサートのため来日した。この時のインタビューでの、彼の力強い言葉とアンコールで歌った「ふるさと」に力づけられた人もたくさんいると思う。

上演後、バックステージドア前まで行くと、マネージャーらしき人が出てきて「今日はプリミエだからこのまま中でパーティをするのでしばらくマエストロは出てきません、お話をするなら楽屋前までいらしてもいいですよ」と言って中に招き入れてくれた。楽屋の前まで行くとちょうどブラックタイに着替えたドミンゴがドアからひょっこり顔を出したところで、いきなりの鉢合わせに慌てているとわたしが持っていた彼のCD「De mi alma latina」に気づいてさっと手を差し出して「サイン、しようか?」と聞いてくれた。彼がサインをしてくれている間に「震災直後にもかかわらず、日本に来てくださったお礼がずっとしたかったんです」と、しどろもどろになりながらどうにかスペイン語で伝えると

「私にはその苦しみも恐ろしさもわかるから、行くべきところに行って為すべきことをしただけだよ。今でも日本のことを心にかけているし祈っているから、元気を出して」と言って両手でわたしの手をしっかり握って、そしてポンポンと肩を叩いてくれた。もうそれだけで涙がでそうになって、彼と何度も握手した。彼の手を離したくなかった。

ドミンゴ自身も、85年のメキシコ大地震で親戚や友人達を何人か亡くしている。だからこそ「その苦しみも恐ろしさも」半年や1年ぐらいでは消えないことが「わかる」と言った彼の言葉の意味は、他の日本を支援してくれた海外アーティスト達の言葉とはまた違う重みがあるのだと感じた。そして彼の決断を支えてくれた家族にもどうしてもお礼が伝えたかったのだとその隣にいた彼の妻に言うと彼女は「私は彼を信じるだけ」と言って笑った。これが40年以上をこの「世界一の男」とともにいた女性の強さとプライドなのかと思った。わたしは彼らに深々とおじぎをして「ありがとうございました」と日本語で言うとドミンゴも「ドモ、アリガトウ」と日本語で答えて、二人でパーティ会場へ向かっていった。最後に二人が振り返ってこちらに手を振っているのが見えた。

震災があった日、わたしは夜勤入りだった。やっとつながった電話で相方が「わかってる、とにかく行ってこい。歩いて帰るからこっちは任せろ」と言ってくれて安心して仕事に入ることができた。仕事中震源が東北の方で、宮城や福島が大変なことになっているらしいという情報が入ってきて、福島に単身赴任中の友人(このブログでは因業放射線科医呼ばわりで時々登場)が無事か気が気ではなかったのだが、夜中を過ぎた頃に彼とも電話がつながった。「なんやもう、ヨメともオカンともまだ電話つながらんのに最初につながったんがお前かー」と初っ端から何やそれは!心配してたんやからな!と怒りながらも安心して泣いた。ちょうど手術中に揺れが来て、それでも患者さん置いて逃げるわけにいけへんしなー、これは殉職するしかないなーと思ったこと、家は半壊状態なこと、周囲の病院もほぼ機能していないので明日から患者受け入れを始めることを聞いた。その間も余震が何度かあり、彼は最後に「明日から大変やから俺はこれからちょっとだけでも寝る、お前は明日の朝まで患者さんしっかり守って、全員無事で日勤さんに送れ、わかったな?俺はお前の『オトコマエ』を信じてるからな」と言いっぱなしにして切った。

やっと自宅に帰れた後相方と相談して、もしこの先また何かあった場合、わたしは東京に残って病院でできる限り業務は続けるので相方だけで舅と犬を連れてわたしの実家に避難してもらうことに話が決まった。実家に電話してその旨伝えると母が「なんや、男ドモだけ送ってくるんかいな」と呆れているので「生存能力の低いもんから順番に避難や、おかげさまでわたしは後からでも大丈夫みたいやし、そうなったらこっちでせんならんことも出てくるやろしな」「そやろ、そのつもりで育ててきたんやもん(フフン」とちょっと偉そうにしていたのだが「よしゃ、任せとき、身一つで避難してきても大丈夫なように準備しとくから、あんたは残って自分のやるべきことやんなさい」と言ってくれた。

わたしの出来ることもやってきたことも、もちろんドミンゴとは比べ物にはならない程度のことだけど、それでもわたしが「そのような事態」に何を求められて、自分がそれに応じて果たすことができるか、その「能力」を信頼してくれている人たちにわたしの決断は支えられてきたのだと思う。よく「仕事に理解がある」という表現が使われる、わたしはこの表現はあまり好きではないのだけどその「理解」とはその人の持つ「能力」に対する「信頼」を指しているのではないかとドミンゴの妻の言葉で初めて気づいた。わたしはきっと、この人たちの「信頼」に応えたくて働き、何より無事に帰ろうと思い続けているのかもしれない。
# by valencienne | 2011-09-29 14:16 | 日常業務 | Trackback | Comments(2)
そんなふうに考えていた時期が、わたしにもありました・・・
ワシントンに来ても、ほとんど英語を使わない。ホテルのテレビもUNIVISIONとGALAVISIONという、スペイン語放送を見ているので、なんか懐かしいコントばっかりやってるバラエティ番組とかこってり濃ゆいテレノベラとか、奥様情報番組の「Despierta America」とかそんなのばっかり。これがメキシコとかそっちの放送局ではなくアメリカ本国の放送局で、スペイン語だけでも十分アメリカ国内の情報が入ってくるので、全くこちらの英語放送を見ないのである。そしてある日、わたしがTVを見ていたところにベッドメイクのおねえさんがやってきて、わたしが「La Hora Pico」という、日本でいうと昔あった「笑う犬の生活」みたいなバラエティ番組を見ていることに気づいて「あなたスペイン語わかるの?」と言うので「ごめん、英語よりわかる」と答えたら「もう、早く言ってくれたらよかったのにアミーガ(友達)!毎日英語で『掃除する?』とか聞いてたじゃないの。私だって英語上手じゃないのよ!」と大笑いされた。彼女はエルサルバドルからの移民で、このホテルで働くベッドメイクのおねえさんたちのほとんど全員がメキシコやコスタリカからの移民だった。

ホワイトハウスを見に行ったとき、その前でおばちゃんの集団が写真を撮っていたのだが、その中の一人がでかい声で携帯で話しているのがベタベタのカリビアンなスペイン語だったもので、あちゃーこれは、と思って「写真撮ったげるよ、みんなどっからきたの?」と声をかけたら「フィラデルフィアよ!でもコロンビア人なの!そんで彼女の旦那はペルー人だしね」と、電話で話しているおばちゃんを指さす。ちょっとちょっと!この子スペイン語話すのよ!と他のおばちゃんたちに声をかけるものでわたしは一斉におばちゃん達に囲まれて「ちょっとあなたも入んなさいよイヒータ!(娘)」と、どんな珍獣やねんというぐらいばしばしおばちゃんひとりひとりと並んで写真を撮られたうえ、携帯で話しているペルー人の旦那と話までさせられる始末。

その翌日、デュポンサークルまで行って、フィリップスコレクションを見てきたのだが、Cosiというカフェでぼーっとしていると(飲み放題なのでオキニw)隣のテーブルのモロWASPの小綺麗にスカしたビジネスマンと学生っぽいヒスパニックの男性二人が話しているのがスペイン語混じりの英語だった。どうやらヒスパニック男性にスペイン語を習っているらしく、テキストブックを広げて「ser...yo soy、tu eres...」と動詞の語形変化を一生懸命復唱している。なんかこのたどたどしさが可愛らしくて、心の中でツッコミ入れつつ聞いてた。反対側隣のテーブルは日本人の女の子二人で語学留学か何かで来てるんだろうねー、といった感じ。そしてわたしが席を立って隣で悪戦苦闘中のビジネスマンの横を通るときに「わかった?」とスペイン語で声をかけたら、ヒスパニック男性の方が「あれー?日本人だと思ってたのにスペイン語話すんだ、どこ?僕はペルーなんだけど」と聞かれ「日本だよwでもそんなことわたし達にとっては大した問題じゃないよね?だってわたし達は・・・」と言ったら「そうだよエルマーナ(姉妹)!」とまたここでも大笑い。

その後は夜から食事に行く約束が入っていた。同じ飛行機に乗っていた地元の男性が空港で声をかけてきたのだが、着いた翌日にその人がホテルに電話をしてきたのである。滞在先を聞かれたので「あー、このへんのエリアのホテルに泊まることにしてるー」というフワフワな答え方しかしていなかったのだが、それを頼りにわたしを探し当てたらしい、なんという執念wwとりあえずその執念に免じて一度ぐらいは食事につきあってやろうか(なんか偉そう)ということで出かけることにしたのである。しかしわたしが指定した店はペルー料理レストランで、一応ある程度はスカしたつくりの店だったんだけど、はいどうもこんばんわー、二人ね、テーブルは?とスペイン語で言いながら入っていくと、店のオヤジの顔ががらっと変わって「オラ アミギータ、何飲むの?」と聞くので「とりあえず イ ン カ コ ー ラ くれ」とすかさず答えるアテクシwそれでもう店員さんみんな大ウケで、一緒に行ったはずのアメリカ人がトイレに立った隙にみんなテーブルに集まってきて話しかけてくるくる。帰りがけにはみんなで「エルマニータ、またおいでよ」とハグとキスでお見送りで、オヤジなんて「ここで働け、なんなら明日からでもいいぞ」とまで言ってくれたりして。

さてアメリカ東海岸の男性というのは概ねどーもダサくてイケてないもので、その夜のデートの相手もやっぱりイケてなかったのだが、実は外交筋の人でハーバードとかコロンビアあたりの大学院も普通に「行ってましたが何か?」みたいな人。乗ってきた車もレクサスのESでまあそれなりに余裕がお有りなのね、といった雰囲気の人だった。「アメリカ人と結婚したら簡単にグリーンカードとか出るよね?」と言ってみたら「それはいい選択だ、僕とならもっと簡単に出るよw」と言うので「でもそういう目的で結婚しているアジアの女性ってたくさんいるでしょ?」と言うと「確かに多いよ、そうやって家族を本国から『合法的に』呼び寄せるのに使ったり。でも陰じゃやっぱり笑われてるね、男の方も女の方も」と、そういう女性の方の呼び名があるとかなんだかムカつく表現を教えてくれたが忘れたw「でもわたし、ここに住んでも英語は上手にならないだろうなあ」と言うと「なんで?南米に暮らしていたからスペイン語が話せるようになったんでしょ?ここで暮らしてたら自然に覚えて上手になるんじゃない?」と不思議そうな顔をしている。ああこの人とはたぶん決定的に全くわかり合えないところがあるんだなとその時思った。

現在アメリカ国内に暮らすスペイン語を第一言語とする人口はおよそ3000万人と言われていて、5歳以上の人口の約10%が家庭内での会話にスペイン語を使っているという。確かにどこへ行ってもほとんどスペイン語のみでことが足りる。そしてアメリカ人は英語しか話せない人が多いというけれど、実際ワシントンで会う人々のほとんどは2~3ヶ国語は使いこなせている、しかしそれはホテルの従業員や買い物や食事に行く店の店員などの層で、オペラを見に行ったときにケネディセンターあたりにドレスアップして集まっていた「アメリカ人」は英語だけしか話せない、というのがほとんどだった。ここではマルチリンガルというのは必ずしも高い教育を受けた結果ではなく、ある意味低所得層の証明、移民出身であるということを意味するものでもあるのかと思うとなんだかイヤーな気分がしたのだが、実際にアメリカ経済が破綻するなりでこの国が沈んでしまえば、本当に浮かぶ瀬があるのはこういった「たくましい」人たちなんだろうなとも思えた。だからこそCosiで見かけたスカしたビジネスマンは一生懸命スペイン語を習おうとしていたのだろうし、別の場所ではアラブ系の男性にフランス語を教わっているキャリアウーマン風の女性の姿も見かけた。我々日本人としてはどうも英語さえマスターできればそれでもう国際的には安心みたいに思いがちである。まあ確かにある程度まではどうにかなる、しかし本当にリスクヘッジと考えてその先を見るのなら、英語はあくまで融通の利く範囲が広い補助的言語と考えて押さえておく程度にして、もう一つ別の言語をきちんと理解できるようにしておくのが得策であると思う。
# by valencienne | 2011-09-15 03:31 | 言語学習 | Trackback | Comments(0)
10年、6ヶ月、これから
看護学校の3年生のとき、実習の準備をしながらなんの気なしにつけてみたテレビの中では飛行機が高層ビルに突っ込んでいた。最初は何かの映画の予告かと思ったのだけど、それがどう見てもCGではないということに気づいてやっと、とんでもないことがどこかで起きたのだと理解した。それが10年前の9月11日の夜のことだった。

そして10年目の今日、ワシントンに来ている。
ホワイトハウスに通じるペンシルバニア通りに面した世界銀行の前では消防車がスタンバイ、どこも厳戒態勢。

もう到着した時から「これはただごとじゃないぞ」と思った。なんせパスポートコントロールが厳しいせいか恐ろしく時間がかかる。そしてわたしの時も旅行の目的から仕事は何をしているのかを根ほり葉ほり聞かれた。その上韓国移民らしい入国審査係員の話す英語がものすごく聞き取りにくい。わたしはどうも中国、韓国系の人たちの使う英語というのがものすごく苦手で、まだインドやアフリカ系の英語の方がわかりやすい、というかなぜかとても聞き取れるある意味ナンギな耳なので仕方がないのかもしれない。あまり何度も聞き返していたのでついに彼は「はー・・・」と大きなため息をつき┐(´д`)┌ ヤレヤレ てな顔をしてぱんぱんとハンコをついてくれ放免となった。

普通の日本人ならここまで尋問されることはまずないと思う。というのも彼はわたしに質問している間ずっとパキスタンとボリビアのビザ(どちらも就労)のページを交互に開いてはためつすがめつしていたのである。どっちもいわば反米国家だもんなあなどと思いつつへらへらしてたんだけど、まあ彼も英語のわからんこんなアホの子が諜報とかテロとかするわけないだろうと思ったのかもしれない。さて各国諜報部の皆様やテロリストの方々、アメリカの入国審査は厳戒態勢って言ってる割にこんな感じではっきり言ってかなりユルユルですわよ。

さてここではワシントンナショナルオペラの「トスカ」を観ることになっていて、というかもう既に観てきた。初日の舞台だったのだが、この日はワシントンナショナルオペラ40周年記念でもあり、9/11テロから10年の節目でもあったため、開演前に国歌の演奏があった。ケネディセンターというところは、出待ちなんかしなくても舞台が終わったらどんどん舞台裏の楽屋前まで通してくれて、場合によっちゃ出演者が楽屋の中まで招き入れてくれるようなところ。この日は舞台後に出演者出席のパーティが裏であったらしく、全員ブラックフォーマルに着替えていた。もちろん指揮のプラシド・ドミンゴも。

会うなり彼は
「あ、去年ミラノで会ったね?覚えてるよ!ルネは元気かい?」と、いきなりスペイン語で!
は、はい元気みたいで・・・と慌てつつも、地震直後にもかかわらず4月の日本でのコンサートを敢行してくれたこと、その時の歌でどれだけ気持ちが救われたことかというお礼がしたかったのだと伝えると
「当然だよ、私にはその苦しみも恐ろしさもわかる。今もものすごく心にかけているし神に祈っているからね」って言って、両手でがっつり手を握ってくれて、肩をポンポン!って。もう涙出てきた。これだけのことなんだけど、どうしても直接、彼の言葉で伝えて、返事を聞きたかったんである。もうこれで人生のほとんどの運は使い果したかもしれんな。

スカルピア役にアメリカのバスバリトン歌手アラン・ヘルドが入っていて、彼は以前METでの「ホフマン物語」でルネが降板した役を務めた人。ルネと同じぐらいかもうちょっと大きいぐらいで、非常にごっつい怖い怖いお顔の人だったけど、地声が体に似合わぬものすごく可愛らしい高めの軽い声で、そしてなぜか動きがオネエぽかったwまあノンケさんらしいのは間違いないんだけど、お好きな方にはたまらないタイプなのも間違いない、という。彼のスカルピアが冷酷とかイヤラシイとかいうよりとにかく「怖い」スカルピアで、子供に見せたら間違いなくゴン泣きするぐらい怖いスカルピアで、わたしも恐る恐る楽屋を覗いたら「おじさん 怖 く な い か ら」と言って楽屋に呼び入れてくれましてちょっとお話をしてきた。また次の出演日においでってことで行くことに。
# by valencienne | 2011-09-11 23:55 | うた | Trackback | Comments(0)
やればできるさ
イタリアには「精神病院」はない、とどこで聞いたのだか忘れたがなぜか以前から知ってはいた。1978年に公布されたバザリア法によって精神科病院の新設と既存の精神科病院への新規入院が禁じられ、実質上の廃絶がなされたからである。今日から日本で公開になる「人生、ここにあり!」というイタリア映画があるのだが、これはバザリア法施行後、地域に戻り、生活を始めた患者たちの生活とその変化の映画である。

去年ベルリンに行ったとき、市街地北部のプレンツラウアー・ベルクという地区の「キーツカンティーネ」というカフェに是非行ってみたいと思っていた。プレンツラウアー・ベルクは小洒落たカフェがとりわけ多いエリアなのだが、その店は精神障害のある人たちが地域で働く場を提供するというプロジェクトに基づいて経営されているカフェで、日本でもこういったプロジェクトはよくあるし、わたしもこれまでに実習やボランティアで小規模作業所や授産施設に何度か行ったこともあり、興味はあったのだ。その興味には「あの」ドイツが一体どこまでやっているんだろうか、というちょっとした薄暗い好奇心も混じってなかったわけではない。なんせユダヤ人虐殺のついでに優性思想に基づいてゲイから身体、精神障害者まで一緒に浄化してきた国である。ついでに言うとそういう「反省」まで徹底してやってしまう国民性であるから、そんな「ドイツらしい」部分に期待もしていた。

さて、その店のあるオーダーベルガー通りの手前、カスタニエン大通りを歩いていたら、向こうから歩いてくる一人の男性がじっとこっちを見ている、そしてわたしをごっつい笑顔でガン見しながらすれ違った。なんか顔についてるんやろかと思うぐらいのガン見だったのだが、少ししたらその男性が後ろからやってきて、またガン見しながらわたしを追い越し・・・たかと思うといきなり振り向いて道の真ん中に跪くと両手をガバっと広げて

「あなたの長い黒髪の先の釣り針が今僕の心を引っ掛けましたっ!」と叫んだ。

・・・(゜д゜)ポカーン

まあ、ナンパってやつですな、これは。話を聞いてみたら案の定イタリア人でw
彼はスイスで銀行員をしているとのことだったのだけど、銀行員でこの水準なら、他の業種のイタリア人がどこまでやるかを思うと、やっぱりイタリア人は何かの国際条約で規制したほうがよいのではないかと思えた。それはさておき、ドイツでイタリア人と日本人が一緒、ってのもどんな負け組三国同盟やねんww面白いから一緒に連れて行くのも悪くないんじゃないかと思って、そのカフェに一緒に行くことにした。ちょうどランチタイムで、連日肉肉イモイモのドイツ飯にげんなりしていたので、あえてベジタリアンメニューにした、普通に美味しかった。周囲のカフェに比べて値段が若干低めとはいってもものすごく安いわけではない、もっと安いところだっていくらでもあった。しかしそれでも店はずいぶん繁盛しているようで賑わっていた。

そこでイタリア人と話していて、昔どこかで聞いた「イタリアには精神病院はない」という話の真偽を聞いてみたら、彼は「精神疾患を診る病院がないわけじゃない、今でもちゃんとあるし精神疾患で入院している患者だっているよ」と言う。じゃあなんでそう言われているのかと聞いたら「僕は医者やソーシャルワーカーじゃないからあまり詳しくないけど・・・病院はあくまで治療する場所であって、患者だった人を社会から隔離して『収容』しておく場所じゃないよ」と言っていた。あ、そうか。そういう意味での「精神病院」はイタリアにはない、ということだったのかと、そのときやっとわたしの中で腑に落ちた。日本ではずっと「精神病院」は排除し隔離する機関だったじゃないか、と。

わたしがまだ子どもだった頃、近所に30代ぐらいの女性が両親と一緒に暮らしていた。たぶん統合失調症か何かだったらしいとずいぶん後になって母から聞かされたのだが、彼女はよく庭に出ていて、表で遊んでいるわたしに声をかけてくることもあった。普通の親ならあまり近づかないように子どもに言い聞かせるところだろうが、わたしの母は一切そういうことは言わなかった。ただその代わりに自傷他害の可能性があるということ、それはほとんどの場合「他害」よりも「自傷」に向かう方がずっと多いのだということ、それに気づいて助けを求めることはまだ子どもの自分にもできることなのだということだけを教えて、わたしがその家に遊びに行くことを決して止めはしなかった。しかしある冬の日、そこの家からボヤが出て、それ以来彼女の姿を見かけることはなかった。彼女がどこへ行ってしまったのかいつ戻ってくるのか、子どもなりに聞いてはいけないような気がして、わたしは誰にも尋ねることはできなかった。

最近うちの病棟に入院してきた、やはり蘇生後脳症の患者さんは、若い頃からもう何10年も70代になるまで精神科に入院し続けていたのだが、ある日食事を喉に詰まらせて窒息し心肺停止となって、蘇生はしたものの人工呼吸器をつけることとなり、元いた精神科病院には戻れずにうちに転院になった。家族はきょうだいが一人だけいるが、代理人という人にすべて任せっきりで一度も姿を見せたことはない。もし亡くなっても直接連絡はしないで代理人に電話してくれと言われている。ある日同僚がオムツ交換をしながら「○○さんって、今の基準だったらこんなに何年も、人生のほとんどを入院しなくてすんだのかもねー」と呟いた。ホンマにそうやったんやろなあ、とわたしも思った。あの女性も今頃これぐらいの年齢になっているだろう。あのボヤの後近所の人たちが「危ないキチガイを野放しにするな」と彼女の両親に詰め寄り、何人かは匿名の文書を送り付けたり家に投石する嫌がらせまでして、結局精神科の病院に入院させることになったのだという話を母から聞いたのはつい最近の話である。

20年ほど前に、わたしが作業療法学科の学生だった頃、精神科実習に行くとわたしが生まれる前からそこに入院しているような患者がゴロゴロいた。慢性期という呼び方をしていたが、それも疾患による変化なのか長期間の入院生活による社会性の退化なのかその当時のわたしには判断ができなかった。10年前の看護学生だった頃も精神看護実習で同じことを思った。今も実際のところはよくわからない。でもそうした実習に行くたびに「入院している患者達よりも、『普通に』社会で生活している、自分は『普通』だっていう人たちの方がいきなり何してくるかわけわかんなくてずっと怖いものだ」と毎日の行き帰りに感じていた。今思えば怖かったのは「いきなり何をしてくるか」ではなく、「自分は普通だ」という人々の吐く「正論」だったのだと思う。正確に言うなら「この意見に賛同してくれる人も他にいっぱいいるんだからね!」「○○っていう権威がこれを正しいって立証してるんだからねっ!」という「後ろ盾」を笠に着た態度と、だから「正しくない」ものはどれだけ攻撃して排除したって構わない、という傲慢さに気味の悪いものを感じていたのだと思う。

だけどこれは誰もが陥る可能性のあるもので、わたしも常に「おほー、危ねえ危ねえw」と思いながら生きてはいる。映画「人生、ここにあり!」の主人公ネッロだってその「正論」ゆえにとうとう自分が排除されてしまう。「正論」は自分の意思決定の理由であって他者を攻める理由でも道具でもないことに気づくかどうかでずいぶんいろんな方面が楽になれるんだけどねえ、とわたしは思う。正しかろうが正しくなかろうが、「それ」はそこにあるもんなんだよな。
# by valencienne | 2011-07-23 07:01 | 医療 | Trackback | Comments(5)
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